作家・創人

お足になるのならと、科学雑誌の挿絵や建築パースも描きましたよ。

江戸の香りが消えてしまった昨今、ネットで調べたような間抜けな知識をもとに、江戸の文化・日本文化を書いた読み物が増えている。映画・テレビドラマに描かれた江戸文化は嘘八百、んな訳ねえだろ!と思い出したのは昭和の終わり。

てんで、史実に基づいた時代小説を書くことが、制作活動の一つに加わりました。このままだとその嘘八百が、後世に伝えられてしまう事を憂いておりますよ・・・・・・。最後に一言、このホームページもアタシが作った。

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物創りを始める前はダイビング三昧、復帰前の沖縄でダイビング、そのついでに台湾の山や西表のジャングルで一人遊び。上の写真は本部・備瀬の蛸捕り名人の漁、それを素潜りで撮った写真。

下の写真は備瀬の部落総出の追い込み漁の様子、この時が本格的な沖縄での追い込み漁の最後になってしまった。左の写真奥に立っているのが蛸獲り名人、ナイチャーのアタシもこの漁に参加。

創人と書いて、つくんどと読む、これは物作りが大好きなアタシの造語。昔、池袋東武デパートでの個展の時、見に来た御仁に「グループ展ですか」と問われた事がある。焼物だけでも色々な傾向の作品を見りゃ、殆どの御仁はそう思うのが当たり前。

一つの型にはまった美術作品を何十年も創り続けるのを由とする考えの基、アタシの作品を見てああだこうだと抜かす野郎は大勢いた。どいつもこいつも物を見る目の無い癖に、はんちくな能書きをひけらかす知ったかぶりばかり。レオナルドダビンチがどんな御仁か知っているかと、問いたいもんだ。

アタシの創った青磁・染付・土物の食器を買った男客が、どれも同じ作家の物だと聞き驚いていたと、陶芸店の主に言われたことがある。これを聞いて、解る奴には解るもんだと思った次第。

下の写真が池袋東武デパートの工芸サロンでの、ある年の個展。そろそろアタシがどんな野郎かの紹介だよ、お立会い!

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こんな事をしながら後年は、老いた両親の介護をアタシ一人でやってきた。写真は98歳で亡くなった母親、その介護日記を短編にまとめ、彼方此方の公募に応募したが、イマイチ。この本のタイトルが  殺しちゃえば、良いのに。

左の写真を表紙にするつもり、そんじょそこいらにある介護日記とは大分違い、面白く為になると思うんだがな・・・.

最後に一言! 近頃ミュージシャンやボーカリストの事をアーティストと呼ぶようになりやがった。冗談じゃねぇよ!!とここまで言っておく。その後を言いや、四の五の抜かす知っかぶりの頭でっかちが、突っかかってくるのが目に見えるようなんでね。

物創りが大好きなアタシが指を怪我し、轆轤も出来ず彫刻刀すら手にすることが出来なくなった時があった。そこで考えたのが、手を使わずに創作が出来る、文章を書くこと。

以後小説を書くことに目覚め、第11回松本清張賞に応募した時代小説が応募総数892篇の中の14篇に選ばれた。その小説を書くきっかけが江戸前の漁師だった爺さんの写真。大賞・佳作にはならなかったが、出版すれば十分面白い本になると思い、それを手直しし、彼方此方の出版社に持ち込むが相手にされず。

画廊や料亭・陶芸店を回り作品を売り込んだ経験から、見る目の無い野郎に限って、この手の売り込みを見下す傾向がある。その後木版画家の目から東洲斎写楽の長編を書いたが、どこも相手にしてくれなかった。

浅草の皮屋で半裁の皮を買い、それでバッグを作っていたこともある。てぇ訳で、色々な種類の皮があり、その中から使い古した感じの処を切り、手縫いでこさえたのが写真左上の巾着、勿論駒の根付もお手製。

98歳で亡くなったお袋の介護をしていた時、寝たきりのお袋の耳に床ずれが出来た。そこで耳を浮かせられるようにと、ドーナツ型のクッションを作った。外側には雛形用にと買っておいた、小紋柄の生地を使用。

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写真は、備瀬でお世話になった農家に飼われていた馬。馬小屋に繋がれっぱなしで脚は糞だらけ。可哀そうなので浜に連れ出し、体を洗ってやった時。

手綱だけのこの裸馬に、乗馬初体験のアタシが乗った。畑の間の未舗装の道を歩き始めると、運悪くトラックがやって来やがった。それに驚いた馬が暴走、裸馬に乗ったアタシの運命や如何に??!!

右の写真は追い込み漁の二・三年後、海洋博前年の本部の海。オニヒトデが大発生!!佃煮に出来るくらいのオニヒトデが海底を埋め尽くし、サンゴは白化していた・・・・・。

ニコノスを首にぶら下げ漁の様子を撮るついでに、手銛で右の写真のような魚を突く。皆は糸満メガネと呼んでいた上の写真にチラリと見える木製のゴーグル、アタシはクレッシーサブのリンチェ、水中の見え方は全然違う。

てぇ訳で、ナイチャー・海人は大分蕪を上げた。この頃は素潜りで水深20メートルぐらいなら、ガンガン潜っており、備瀬の海人より潜りは上手かった。これらの写真は、太陽賞予選通過の組写真の一部。

この頃のカメラはシャッタースピード・露出・構図・ピント合わせなど全てを手動で決めるアナログカメラ、今時のシッターを押せば誰でも写真が撮れるデジカメとは操作が段違いだよ、お立会い!。

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半世紀ほど昔でも珍しい手漕ぎのサバニ数隻に、6・7人の男衆がそれぞれ乗り込み、櫂を漕いでの勇壮な追い込み漁が始まる。

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平成の始め、目の眼と言う雑誌に紹介されたアタシの記事。この雑誌掲載の数年後に陶遊てぇ雑誌も取材に来て写真を撮って行ったが、本が刷り上がっても、うんともすんとも言ってこず。記事を掲載した雑誌も送って来ず、てぇ、いい加減な出版社だった。

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ベトナム戦争が激しかった頃のB-52の写真は、嘉手納基地のフェンス際。知人のつてでベース内の米軍将校の家に行ったりと、この頃も普通じゃできない体験を随分した。

その右は沖永良部の鍾乳洞、壊れたライト一つで一人洞内のプールを泳ぐアタシの頭上には、コウモリが乱舞していた。左下は、永良部百合の花を抱えて歩く、島の子供達。

鉈一本で竹を切り、蔓で筏を組んで川を下ったのは半世紀前の西表島、写真は二十代の頃のアタシ。西表の山の中、一人ツエルトを張る場所を探していたアタシに突進してきたのが猪、その先は何かの機会に・・・。

米軍放出品のブッシュナイフを手に、一人薄暗くなったジャングルの様な藪を歩く右手に獣の気配、ふと上を見上げるとオオコウモリがアタシを見下ろしていたり。川を歩くアタシの足元から大きな音を立てて逃げて行ったのは、大ウナギ。西表のジャングルでの面白い体験は、数知れず・・・・。

西表向い、定期船も通わぬ小さな島のガス・水道・電気の無い家を借り、ダイビングをしていた頃の写真が上。石垣島の鍛冶屋で銛先を作ってもらい、それを長い竹に取り付けた手製の銛を手に、夜になると海に魚を突きに行く生活。

人っ子一人いない夜の海での漁の最中、海底に小さな物を落としてしまったことがある。そこでそのあたりの景色を記憶して、翌日、それを海の中から拾い出せたのは漁師の血を受け継いだおかげか。

潮の引いたリーフの水道を泳いでいると、向うからやって来たのは鮫。怖いから手にしたカメラのフラッシュを焚くと、ゆっくり方向転換してくれて一安心。3メートルほどの長い柄の銛だと、泳いでいる魚を手の力だけで突くことが出来る。

右下の写真は、島の小学校の卒業式でたった一人の卒業生の為に写真屋をかって出た時のもの。後日プリントした写真を送った頃は、この子は石垣島の中学生。
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高輪の親父の処に嫁いだお袋(中央)と、和裁のお弟子さんとの写真。お弟子さんの中には、二本榎・高松宮邸の女中さんが何人もいたと言う。右の写真は幼い弟と一緒の、お袋の子供時代。

お袋の父親は近衛の騎馬兵。後年千鳥ヶ淵に桜を愛でにお袋を連れて行くと、平川天神前の祖父に引き取られていた幼いお袋は、千鳥ヶ淵を抜け近衛師団厩舎の父親に、一人で会いに行ったと語った。

おはぎを詰めた重箱を抱え、英国大使館前から近衛師団司令部に向かう様子を、幾度となく聞かされたもんだった。ホームページに身内の古い写真を載せるのも面白かろうと、こんな趣向に。

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創人は着る物にも気を使う、てんで御覧の品も全てアタシの作品。ウルフの帽子を貰った時、それに合うのは毛皮のコート、てんで、花川戸の毛皮屋で二種の毛皮を買い、小伝馬町の型紙屋で買った型紙を手直ししてから、ロングのコートを手縫いで仕上げた。その時、帽子の下の毛皮のバックもこさえた。

その後毛皮屋へ行くと手ごろなラムが有ったので、それでリバーシブルのベストを縫った、態々背縫いをしたのは見た目を考えて。写真を撮ったのは大分着古した頃なので、ご容赦を・・・・。

革のブルゾンはストーンウォッシュが流行り出した頃、貰った革ではチョイ足りないと、手前で皮をストーンウォッシュ加工し、作ってもらった型紙を元に縫った物。この時は、知人のミシンを借りた。

ポシェットを取り付けられるようにしたのはアタシのデザイン、金具類は浅草橋で調達。
他にも色々作りましたよ、ジュエリーを作った頃は、その材料を買いに甲府まで出張った・・・。

色々な写真を見せられて、面くらったでしょ??これらはアタシが創ったり経験したことのほんの一部。回遊魚の鰯と同じで一所にじっとしていられない性分、絶えず何かをやっている。

巾着の写真右上四個の印伝以外は、アタシがこさえた。下段黒地布製と右下は娘の誕生日プレゼントにと縫った、大判ショールの残り布で作ったもの。このショールを縫う時も結構手こずった・・・・・。

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文芸社より発売中!!。表紙の写真舟の艫に立っているのが、高輪の漁師だった父方の祖父。
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上の写真、帆掛け船の艫に立っているのと、投網を手にしているのが高輪の漁師だった父方の爺さん。下の写真は、親父が幼い頃の高輪泉岳寺・義士祭の写真。左の写真左隅が親父。

広い会場に毎年大量の新作を並べる作家はアタシだけ、そのおかげで工房は売れ残った作品であふれている。毎年見に来てくれる御仁に、前年と同じ作品を見せるのは作家の恥。てんで、搬入日ぎりぎりまで新作を創るのがアタシの流儀。

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人一倍恥ずかしがり屋で控え目なアタシが意を決して乗せた顔写真、ひょっとこの面の下は眼光鋭い強面の親父。

若い頃から色々な経験・体験をしてきた中に、死亡火災現場・発見てぇのがある。やって来たレスキュー隊の手際の悪さに思わず大声で現場を仕切ると「「黙っていて下さい、こちらでやりますから!!」とハンドマイクを手にしたレスキューの隊長に言われたが、消火後他の隊員からは感謝された。

一人山を登っていると、台湾陸軍の演習の中に・・・・とか。海人の漁の手伝いをしていて刺し網に引っ掛かり、危うく土左衛門になりかけたりと面白い経験は数知れず。何時生まれ、どこで個展をやったとかなんてぇ自己紹介より、こんな方が面白いでげしょ!!。

作品を評価するのは作家の経歴ではなく己の感性、感性が有れば右の写真が龍に見えるでしょ??。これは房総白浜で偶然出くわした、ほんの一瞬の風景・・・。

見る目の無い奴に限って肩書・能書きで作品を判断するのが、昨今の風潮。その所為かデパートでの個展時、美術年鑑に名を載せろと店員や出版社の御仁から何度も勧められたが、「嫌なこった!!」と断り続けた。その訳をここで言うつもりは、さらさら無し!。

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