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和・・・

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中秋に飾るススキに合わせる花もその年次第、吾亦紅・竜胆などは手に入るが、切り花の桔梗は売っていない。花屋のアンちゃん曰く、「花農家が作らない」だと。庭の槿を一枝切って加えるのも、毎年の事。

三方に飾る団子を上新粉で作り、翌日はそれを串に刺して焼き団子にするのも楽しいもんだ。月見団子は13個だが、一つ余分に作り御覧の様に・・・・・。

気に入った扇子が見つからず、それならばと日本橋の扇子屋の扇面に絵を描き、扇子に仕立ててもらった。この時、扇子絵は薄い線で描いた方が涼しげだと気づいた。。

左下の出べその蛙の絵が最後に描いたもの、右の葡萄図が最初の絵。雷光行水図の裏面は、手桶に掛けた虎のフンドシ。

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この年は掛花用の青竹が大分余ったので、黒豆と松前漬けを盛ってみた。黒豆・栗金団・松前漬け・ナマスなどは馴染みの料理屋の板さんが作り、煮しめ・田作り・数の子などはアタシの作・・・・。

明治政府が自国の文化を卑下し、欧米文化を由としてきた風潮が令和になった今でも続いている。岡倉天心や白洲次郎の様な御仁が居なかったら、日本文化は大分違った物になっていただろう。

その白洲次郎の女房、白洲正子の兄さんと、母方の叔父さんが友達だったと聞かされたのは、白洲正子が亡くなった後。なんでぇ!、その事がもうチョイ早く解っていたら・・・・。

餓鬼の頃から思っていたが、日本企業が日本国内で日本製品を日本人相手に売る為のコマーシャルに、英語や欧米人を多用して何とも思わぬ無神経。しかも会社名や固有名詞まで英語風の発音にして、嬉々としている大馬鹿野郎がいかに多いか。

わが国では家を建てるにあたっての格言がある、それは「夏を旨とすべし」。高温多種・梅雨時の雨を考え庇を設け、風通しを良くするのだが、近頃のはこの庇が無く欧米風の間抜けな住宅が増えてきた。

隣の席で飯を食っていたのが、東京工業大学大学院・建築科のアンちゃん。オヤジさんも建築家と言うこのアンちゃんにこの格言の事を問うと、知らないと言う。そこで家を建てるにあたっての基本を伝授した。

上記のコマーシャルもそうだが、物を作るにあたっての基本中の基本を理解していない御仁がスゲー増えた。

西洋かぶれてぇ言葉を聞かなくなった昨今だが、昔以上に蔓延している。和が見直されて来たと今更言っても、その間に廃れてしまった和の文化がいかに多いか考えてもらいたい。

日本の風土・宗教・気候を元に、先人が長い年月をかけて完成させた和の文化。衣(着物)食(和食)住(和風建築)と世界に誇れる文化を、そのまんま後世に伝えてもらいたいもんだ。

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重陽の節句には菊を活け、菊の酢の物。柿が出回る秋にはそれを使った白和えと、旬の食い物を有難くいただく。近頃は、思い描いた食材が手に入りにくくなってきた。

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雛人形を飾り桃の花を活けた後は、小籠に菓子を詰めて雛菓子を作る。雛祭当日は朝から散らし寿司作り、98歳で亡くなった母親の介護をしてきた時から始めたこれらの事を、一人になった今でも続けている。

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豆撒きで余った豆と出汁昆布を研いだ米に入れ、チョイ下地を入れておまんまを炊けば、旨い豆御飯の出来上がり・・・・・。

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志ん朝の芝浜でも聞きながら、長火鉢で餅を焼いて食う贅沢。こんな事をしていると、市丸姐さんの端唄木遣りくずし「兄貴ゃ二階で木遣りの稽古♪音頭とるのはありゃ家の人、エンヤーラヤ♪」と聞こえてくる感じ。

初めて長火鉢を使った時、いきなりなりだしたガス警報器の音に驚いた!!窓を少しぐらい開けたんじゃ二酸化炭素は部屋にこもる、風が抜けるように十分換気には気をつける事。冬が寒いのは当たり前と思えば由。

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長火鉢は猫板を修理し、市販の籠に和紙を貼りそれに柿渋を塗って炭籠にした。鍋敷きは普段使わぬ前頭葉をフル稼働させ、御覧のようにこさえた。火吹竹の下は消壺、割れた蓋を金継した飛青磁の水指を代用。

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この年からは、煮しめ・黒豆・松前漬け・ナマス・田作り・数の子などをアタシが作った。黒豆は長火鉢の上でコトコト煮た(下の写真)・・・・。仕切りの葉蘭は、こうゆう時の為にと庭に植えてある。

開花前の桜を切っている処に出くわした、そこで切られた枝を貰って帰り馬図の大壺に活けると、見事に開花した。この時に思い浮かべた唄が 「咲いた桜になぜ駒繋ぐ、♪ 駒が勇めば桜散る♪♪」

下はある年の暮、正月飾りに餅花を作ろうと紅白に練った上新粉を、木の枝に巻き付けた物。、これがエレー手間、使った花材は、若松・千両・柳に餅花・・・・。







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玄関正面に掛ける鯉の滝登りの風呂敷は、お袋の香典返しの一部、此れを見つけた時は、綺麗な物が好きだったお袋にふさわしいと思った次第。

五月四日・五日は白金清正公の大祭、山門前の露店の姐さんから菖蒲を買い、本殿で勝守りを頂くのが毎年恒例。その後は二本榎への坂道を上り、馴染みの豆屋の女将からエンドウ豆を買い、泉岳寺脇の路地を抜け寿司屋の哲っちゃんの店へ行ったもんだった。

お袋が雛形を縫うようにと彼方此方で探して来た生地の端切れを、短冊にした。余った竹に小さな短冊を飾り、仏花に加えた・・・。

この中に特別思入れの有る生地がある、それは京都の絞り職人松田はんがアタシにならと格安で譲ってくれた鹿の子絞り。それで女房の着物をこさえたが、袖を通すことなく彼女は逝ってしまった。その端切れを短冊にして、亡くなって二週間後の七夕に飾ってやった。

七夕飾りは雛形の余り布で、それが終ると浅草寺のホウズキ市。毎年馴染みの兄さんからホウズキを買い、寝たきりのお袋が見えるようにと、ベッド脇の窓際に吊りシノブと共にぶら下げるのが恒例になった。

市販の供物のホウズキはみすぼらしい、てんで、ホウズキ鉢の中の一つと取り替える。毎年色々な趣向で供物の籠を飾り、添えたツタは山帰来や庭に生えた自然薯など・・・・・。

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盆を迎える準備をと、仏壇を掃除していると鈴布団が古くなっていることに気付いた。長年お袋がこさえて来た物、その光景を思い出しながら手前で新たに作る事にした。

古い鈴布団を解き、その作り方を確認してから、雛形用にととってあった生地で作ったのが右の写真。下は我が家の盆の設え、ミソハギを入れた青磁の瓶の隣は、水を張った杯洗。

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神輿を担がなくなった今でも祭り好き、てんで、彼方此方の祭りを覗く。上段左と中央は日本橋室町神田祭の時。二人並んだ写真は、この頃通った天婦羅屋の大将と日本橋の上で撮ったもの。

奴さんの店に行く前、羽田の魚屋に寄って頼んでおいた蝦蛄爪を買い、それで掻き揚げを作って貰ったのは大昔。その右は築地の馴染みの店の御仁がアタシの為にと襟に名を染めてくれた、築地波除神社宮元の半纏を着た姿。

下段左は深川富岡八幡の祭り、若い頃はこの富岡の神輿を朝から担いだもんだった。此処で神輿を担ぐときの形は町内半纏にハンダコか長股、掛け声はワッショイ!ワッショイ!。汚らしい半纏姿が多くなった昨今だが、富岡の祭りは昔のまま・・・・。

中央は、芝神明のダラダラ祭りから戻ったところ。手にした物は絵馬が添えられた神明生姜、毎年これで生姜ご飯を作る。右は浅草鷲神社のお酉さんから戻った形、風呂敷の中には切山椒と志乃多の稲荷寿司。

老母の介護疲れからものの見事に転倒し右膝のじん帯を切ってしまい、以後ステッキは欠かせない。上記の様な生き方をスローライフと言うのだろうが、それよか昔ながらの生き方と呼んだ方が、しっくりする。


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暦上での晴れの日、てぇと、なんてったって元旦。てぇ事で、アタシもその晴れの日を迎える準備を毎年怠らぬ。

正月に生ける花やお節の材料を準備し、門松・お供え・掛花の用意も年中行事。花材に鋏を入れるのが可哀そう、てんで極力そのまま使い、余ったらあちこちに活けて無駄のないようにするのが流儀。この年は千両を大量に頂いたので、彼方此方に使った。

奴凧手前の羽子板は愛宕神社の絵馬、此れを頂きに長い階段を着物に下駄で上がるのが毎年恒例。赤絵の油壷に刺した稲穂は、品川青物横丁海雲寺の荒神さんの祭りの日に、露店の豆屋の女将に頂く品。

上の写真は正月飾り、年々花材の種類が少なくなり、近頃は若松・千両・梅をメーンにその時手に入る花を加える。花器は売るほどたくさんあるので、その年の気分次第、左下は余った花を土物〔陶器)の壺に活けた。



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