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羽織紐も着物によって替え、その結び方も替えている。お召などには房付きを、紬などにはくだけた感じの平打ちの房無し。下の真ん中・右の羽織紐は手前で糸を染め、それを組紐職人に送って組んでもらった物、左は池之端の組紐屋の羽織紐。

帯は博多西村の太陽、二十代の頃お袋が博多で買ってきたこの帯がだいぶくたびれたので、日本橋の西村の出店に行くと、金茶は廃盤だとか。

しかしどうしても欲し言うと「帯を貸してくれれば博多に送りそれを見本に織ります!」と番頭さんが言った。それが織り上がって来た時「昔の方が物が良いな!」とアタシが言うと番頭さんが「そうですね」だと。

その時織り上がったばかりの角帯を二本買い、京都の絞り職人の展示会行くと、それを見た絞り職人の松田はんが欲しいと言う。そこでそれを手渡したのだが、やっぱ仕事柄見る目がある・・・・。

その時復活させた色の角帯は、定番にもどった。真ん中の写真の着物は塩沢酒井織物のお召の縞、塩沢一のこの機屋とも長い付き合い・・・。下の写真両端の金茶の角帯が復活した帯、中央は色違い。

三歳の七五三の着物にと探してきたのは、可愛い色の小紋。これは後で仕立て直して着られるようにと、本裁ちにしてもらった。

勿論仕立てはお袋、アタシはお被布が嫌いなので、こんな形にした・・・・。あまり布とハギレを使い巾着もこさえた。帯・草履・末広にハコセコは何処で買って来たか昔の事なので、忘れてしまった。

羽織より半纏の方が気楽、てんで、半纏を羽織って出かけることが多い。これらを染めてくれたのが、曳舟の気の良い型染屋の大将。左の被布半纏を染めた時は色見本を描いて送り、それを元に染めてもらった。

どれも世界で一枚だけの誂え半纏、背の大紋にはアタシの名、襟には陶物師(すえものし)と染めてもらった。陶物師はアタシの造語、陶芸家と呼ばれるのが大嫌いでね!誂えた半纏と祭半纏とは仕立て寸法がチョイ違う、半纏と言っても色々な形がある。

半纏を着ていると「お祭りですか?」と問われることが多くなった、それくらい半纏が何たるものかを知らぬ御仁が増えた。そんな時は一言「違うよ!」と答えるだけ。

下の左から、股引に半纏、紬の着物に半纏、紬の着物に紬の羽織。着るもんが違うと、御覧の様に雰囲気が変わる。
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世界の民族衣装の中でも、着物程、色・形・素材の種類が多い物は無い。特に女物の着物の種類は驚くほど豊富、しかしいくら着物好きなアタシでも、それらを手に入れる機会はまれな事。

そんなアタシだが、良い生地を見るとつい買ってしまうのが悪い癖、そのおかげで我が家の物入れは御覧のよう。

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着物(雛形・その他)

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御覧の様な着物を着て上野の博物館に行った事がある、その時職員が「下駄での入館まかりならぬ!」と間抜けなグリーンのスリッパを差し出し履き替えろと抜かしやがった。一言断り館内に入ると、トランシーバーとスリッパを持った職員がアタシを追いかけ回す。

堪忍袋の緒が切れたアタシは「博物館とは日本の文化を知らしめる処だろ、そこへ日本の民衣装で入れないとは馬鹿な事抜かすな!」と一喝した。実際には長いやり取りだったが、その日は下駄で館内を歩き回った。

あまりに癪に障るもんだからこの事を巻紙に毛筆でしたため、永六輔のラジオ番組に投稿した。するとそれを放送してくれたのだが、奴さんアタシの事を彼女はと抜かしやがった。その時どんな形をしていたか手紙に書いたのだが、着物の事が詳しくない奴さんには解らなかった様。

そこで再び手紙を出し、放送で言ってくれた日の内容にからめて「アタシは勝海舟の様に傷の無い、世間様に誇れる物を股間にぶら下げております」墨痕鮮やかにしたためた・・・・。この事が有って数年後、博物館の前を通った時、そこにいた職員に未だ下駄での入館を断っているのかと問うと、今は下駄で入れますだと。

坊主・芸者の正式な履物は下駄、舞子はぽっくり。粋な姐さんが塗り下駄の芳町を履いて博物館にやってきたら、こいつらどうするのかと見てみたかった!!。

アタシと同じように下駄で入れないとはと、職員に文句を言った御仁に会った、それは上野桜木・愛玉子の女将さん。蔵前生まれの彼女との馬鹿っ話の最中にこの話になり、盛り上がったのは随分前。

アタシの作品を売っている店が、帝国ホテル地階にあった。その店に行く為ロビーを歩くと、すり減った下駄歯のクズが赤い絨毯の上に点々と点いてしまう。そこで制服を着て立っているアンちゃんに「悪い!跡、掃除しといて・・・」と声を掛けたもんだった。今は滑り止めを兼ねたゴムを歯裏に貼っているので、そんな事は無い、多分!!

一言付け加えると、以前古い神社の大祭に行った時、そこの神官が草履を履いていた。そこで「そんなもん履かねぇで、浅靴を履きなよ!!」と声を掛けると、翌々年の大祭には神主全員が浅沓を履いていた。



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呉服問屋の初売りであいさつ代わりに買った反物や、洗い張りした生地に羽裏・裾回しに染めるつもりの白生地などがぎっしり詰まっている。この中には娘の為にととってある反物が数本あるが、その中の一本が右の散松葉の長襦袢地。

赤地に白抜きの小紋はあるが白地に赤の小紋が無い、そこで呉服問屋の番頭に、赤白が着られるのはせいぜい三十代までまで、そこいくってぇと白赤なら死ぬまで着られるぞと言うと、白赤の長襦袢地を大量に仕入れてくれた。

そこで御覧の散松葉の他に小桜・梅鉢・鈴などの長襦袢地を14・5本買い、欲しい御仁達に回してやった。その中で一番気に入っていたのがこの散松葉、それを娘用にととってあるのだが・・・・。

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和裁の師匠であり腕の良い仕立て屋だったお袋の影響で、着物には餓鬼の頃から親しんでいた。写真はそのお袋が高輪に住んでいた頃、お弟子さん達と撮った写真。

中央のお袋の右隣は、数年前亡くなった大森の洋食屋の看板娘だった御仁の叔母さん。左後ろは高輪大木戸前の蕎麦屋の大将のお婆さん。更に下の写真には泉岳寺参道の寿司屋のご母堂が写っている。

その寿司屋の大将、今は亡きてっちゃんは東京一の寿司職人、その寿司屋の握りを食うのを楽しみにしていたのが、大森の洋食屋の看板娘であったお婆ちゃんだった。てっちゃん亡きあと、本当の江戸前寿司は東京から消えてしまった。

このてっちゃんを兄貴の様に慕っていたのが、高輪大木戸向かいの蕎麦屋の大将。アタシが彼等三人の店に通うようになり、旨い料理を食いながらの馬鹿っ話が出来たのも、亡きお袋と彼等・親族との不思議な縁(えにし)だと思っている。

十代のアタシに着物の着こなしを教えてれたのが、出入りの呉服屋の爺さん。白髪・小柄な品の良い爺さんは一年中着物姿。

一人我が家の近所に住んでいた爺さんは、お袋の処に来るのを楽しみにしていた。その爺さんが亡くなった時形見として頂いた着物を、お袋が仕立て直してくれたのが左の道行き。

道行きの隣は袷の時期の雨コート、その隣は単衣・盛夏時に着るコート。浅草寺脇の呉服屋へ行き、そこのお婆ちゃんに探しているコート地のことを話した。

すると、近くの他の呉服屋まで案内をしてく、そこで見つけたのがこの紗綾型の生地。そのお婆ちゃんはとうの昔に亡くなり、その呉服屋も今は無い。

前記の爺さんの形見のコートを見本にし、生地・裏地・ボタンを買い仕立ててもらったのが右のコート、市販の角袖とはチョイ違う。  

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絽の紋付袴には、白足袋に本天の鼻緒を挿げた雪駄、夏の葬儀の時の形。普段の角帯は貝ノ口に結ぶが、袴下の帯結びは箱結び。

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着物の着方は着る素材によっチョイ変えるのが御の字、特にご婦人の場合は柔らか物と紬や盛夏物では違えるのが当たり前だった。それが昨今は一年中長い裄の着物をだらしなく来ている御仁か、つんつるてんの古着を着ている御仁ばかり。今時の長い裄の盛夏物は、見るからに暑苦しい。上は盛夏時の着物。

真ん中の写真、細かい縞の上布を着て人形町の甘酒横町を歩いていた時、浜町の方からやって来た見知らぬ姐さんに「涼しそうですね!」と声を掛けられた。そこですかさず「涼しかねぇよ!!」と答えた。

八月半ばの暑い時期に、街中を歩いて涼しい訳は無いが、そう見せるのが着物の着こなし。軽く会釈をしたその姐さんとすれ違ったのは鯛焼き屋の前あたり、浜町の手拭屋に向かう時だった。





その後娘の為に誂えた着物が、成人式に着る振袖。娘が6・7歳の頃、京都鹿の子絞りの展示会で御覧の総絞り生地を見つけ、その絞りの良さに買ってしまった。長年の経験で、この手の反物は出会った時が吉日、この出会いを逃すと二度とお目にかかれない。

総絞りのこの生地には三種の絞りの技が使われている。お馴染みなのが雲とも松ともつかぬ模様を現した鹿の子絞り、これだけ細かく絞るのには熟練の技が必だが、もっと難しいのが直線状の細かな絞り。縦絞りと呼ぶ技法で、今この技を使える職人は居ない。

それから十数年、二十歳になった娘の為に振袖一式をそろえる事にしたのだが、長襦袢の良いのが見つからぬ。そんな時は手前で作っちゃえと、京都の絞り職人に「身頃に柄は要らねぇからよ、袖口と振りぎりぎりに絞ってくれれば御の字」と電話をした。

その時「玉三郎の赤の様な染粉も一緒に送って!」と付け加え、送られてきた長襦袢地と色粉を使って、工房で染め上げたのが下の写真。振袖の裾にはふき綿(裾綿)を入れて仕立てたが、昔はこれが当たり前だった。

七歳のお祝いは、紅型模様の生地を選んだ。帯・ぽっくりなどの小物はすんなり探せたが、抱え帯の良いのがなかなか見つからず、彼方此方捜し歩いた。ぽっくりの台は気に入ったが鼻緒が気に入らぬ、てんで、挿げ替えてもらう。帯結びは立矢・・・。

並んで立つのは若い頃のアタシ、お召の着物にお召の袴、羽織は一つ縫い紋の利休鼠のお召の羽織。娘とは訳ありで、離れて暮らしていた・・・。

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昭和の終わりころから着物の着方がおかしくなってきた、長すぎる裄に品が無く汚らしい着付け。その訳は喉まで出かかっているが、ここでは言わねぇよ!!

言いやどこぞの知ったかぶりが、四の五の抜かすのが目に見えている。てんで、そんな馬鹿の相手をするほど暇じゃない・・・。近頃の着物姿も汚らしいが、祭りの半纏姿も汚らしい。

半纏の上に角帯を締める馬鹿に、褌で汚ぇケツを出して神輿を担ぐ野郎と、品の無い事おびただしい。お江戸の祭りは褌御法度!半纏に長股かハンダコ。今でもそれを守っているのが、深川富岡の祭り。若い頃はその深川で神輿を担いでいたもんでね・・・・。

上の写真は日本橋室町の町内半纏に、レンガの股引を穿いたアタシ、隣は室町の夜回り。右端は藍の着物を尻っ端折りし、名入りの半纏に算盤球の三尺を閉めたところ。この時穿いているのが千鳥と呼ぶ雪駄。

アタシがこの手の半纏を始めて着たのが、日本橋の鳶の処でバイトをしていた高校生の頃。高島屋裏の小屋で正月用のガサを売ったり、お供えを飾りに料理屋を回ったもんだった。組の長半纏を着て木箱に入れたお供え一式を肩に担ぎ、鳶の爺さんの後ろにしたがい師走の日本橋を歩いたのは、半世紀以上昔。






京都着倒れ、東京履き倒れと言われ、東京人は履物にうるさかった。着流しに雪駄を履いた姿で歩こうものなら「見てみなよ、銀流しが歩いてら」などと悪口をいわれたもんだった。

歌舞伎の世話物を見れば分かると思うが、粋な江戸っ子は下駄を履いた。勿論アタシも普段は下駄しか履かぬ、てんで、下駄箱は御覧のよう。

本天の鼻緒を挿げた角細が二足あるが、他は全て鹿革の鼻緒でほとんどが印伝。下駄の台は下方かのめり、歩きやすくくだけた感じののめりは、紬を着た時に穿くことが多い。

白の鼻緒の雪駄は千鳥と呼び祭りの時しか履かぬ、その右隣りにチラリと見えるのは瓢箪草鞋。左下の後ろ姿は日本橋室町での神田祭の時、瓢箪草鞋を履き、腰には予備の瓢箪をぶら下げる。

隣はこの町内での夜回りの時の形、「火の用心、さっしゃりやしょう・・・!」と声を張り上げていると、一軒の家から高齢のご婦人が出てきて、「アラ、良い声ね!」そこで「何なら、差しで聞かせるよ!」と、もう一声「火の用心、さっしゃりやしょう・・・!」

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暫し疎遠だった娘と再会したのが、母親の葬儀の日、その時娘が謡いをやっていると聞き、袴と一つ紋の着物を誂え、送ってあげた。

反物・袴を探したのは前記の呉服問屋、お召の生地は直ぐに見つかったが、仙台平の良いのが無くなっていた。この頃から十年ほど前、長唄をやっている知人の為に袴地を探した時より、品数が少なくなっていた。

その訳は、てぇと、手間のかかる良い物を作っても売れないから・・・・。問屋の見本帳で一番良い袴地で仕立てもらい、お召の着物にはプラチナで縫い紋を入れてもらった。

裾回しはアタシが染めたが、薄い羽二重生地の所為か思い通りの色にならず、三枚目に染め上げたのが下の写真。草履は浅草雷門の履物問屋へ行き、鉄紺本天の鼻緒を挿げてもらった・・・。

染めた生地の括り糸を解いたのが、入院中のお袋のベッドの上。午前中工房へ行ったため病室へ入ったのが午後。それが遅いとへそを曲げたお袋は、アタシの手元を見ようともしなかった。

目の前で括りを解いて絞りの柄が現れる処を見せたかったのだが、へそ曲がり婆さんめ!!。その後微睡むお袋の枕元に反物を置いておくと、目覚めたお袋がそれに気づき「良い色だね!!」と笑顔でぬかしやがった。

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モコモコ白の振袖用ショールが大嫌いで、淡いベージュ・カシミアのシンプルなショールを買った。

後は丸ぐけを作るだけと、新たに染めた縮緬生地に金糸で縁取った手毬を刺繍しようと思ったが、これが思いのほか手間がかかり、無地の丸ぐけに予定変更。

これら振袖一式を急ぎ娘の処に送ったが、果たして着てくれたかは解らない・・・・。

七五三用の帯を買った時は良い帯があったが、それから十数年経ったこの頃は、いくら探しても昔ながらの鮮やかな配色と、大柄の振袖用の帯が見つからなかった。たまたまデパートの祭事場で出会った京都の老舗の帯屋の番頭さんに問うと、昔ながらの色の帯用糸は染めていないとの事。

仕方が無いので、京都鹿の子絞りの組合の展示会で渋々買ったのが、上の帯。この時ばかりは悔やんでも悔やみきれない気持ち、此れだったら総絞りの振袖生地と一緒に、帯も買っておけばと後悔した。

草履とバッグは、浅草雷門の履物問屋で佐賀錦の良いのを見つけることが出来た。二階に上がり展示してある部屋に入る寸前、遠くに置いてあった写真のセットが目に入り「あれ!もらうよ!!」と指さすと、若女将が「ほかにも色々ありますよ・・・・」と言ったが、アタシには良い物が目に飛び込んでくるのである・・・・。

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袷なら一日一枚、浴衣なら二枚縫えてやっと一人前。お袋と同じくそんな事を言っていた呉服問屋の番頭さんが下の写真右の御仁。

左はまだ髪の毛が濃かった頃の、アタシ。この写真は日本橋の呉服問屋の初売りの日のスナップ、毎年年始の挨拶がてら初売りに行、何かしら反物を買ったもんだった。

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品揃えが良く、良い物を安く売るので有名だったこの問屋も、数年前に店を閉じた。その訳は、てぇと、反物・着物が売れないから。幾ら良い品を扱ってもそれが売れない事には話にならぬ、これは問屋・呉服屋だけの話ではなく地方の機屋も同じこと。

それまでの着物の販売方法にも問題が有ったのだろうが、何より着物を着る御仁が激減したのと、物の良し悪しが解る御仁が居なくなったのが、売れなくなった最大の原因だと思っている。

懇意にしている京都の絞り職人も、倅にはこの仕事を継がせないと・・・。これと似たような事を、塩沢の機屋の大将も言っていた。幼いころから何時も周りには着物関係の御仁が大勢おり、そんな中で育ったアタシにとって、昨今の着物事情の衰退は腹立たしいの一言。

塩沢の機屋の大将・女将さんや京都の絞り職人に、博多の帯屋の番頭さん達と馬鹿っ話をすると、行きつくところは愚痴に似た良かった頃の着物事情になってしまう。

元気な頃は袷なら日に一枚半、浴衣なら三枚縫ったと言うお袋の仕立ての腕の凄さが解ったのは、アタシが四十を過ぎてから。それ以前は、仕立て屋とは皆こんなもんだと思っていた。

自分の手元を見ずに針を動かし、お弟子さん達の仕事ぶりに目をやるお袋の姿は、幼い頃のアタシの脳裏にしっかりと刻み込まれている。

忙しくて反物を買いに出られぬお袋に代わって、十代の頃からデパートの呉服売り場などで反物を買って来たアタシ。そのアタシが我が子の為にと探してきたのが、御覧の生地・・・。


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