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上の写真の日本橋の呉服問屋が店を閉じてしまい、安くて良い品を売っていた店が無くなり困っている。左上は初売りの日に買った物、右上の三本の着尺は店仕舞いの時に買った反物。

その反物の左は小千谷縮だが、昔浅草の古い呉服屋の大女将に「こんなの小千谷縮とは言わねぇよな!!」と言った時と同じような、ほんの申し訳程度にシボのある縮。

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着物・雛形其の二

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着物関連で伝えたいことが思いのほか多く、ページを分けて紹介することにした。下の写真も呉服問屋の初売りの様子。

娘の着物を始め多くの御仁の着物の誂えを手伝ってきたが、お袋に着物を買ってあげたことが無いことに、ある日気付いた。

着物を着なくなったお袋でも浴衣ぐらいは着てくれるだろうと、呉服問屋で浴衣地・博多献上の半幅帯を買った。更に履物問屋で歩きやすそうな下駄を選び、麻の葉染め分けの鼻緒を挿げてもらった。その写真が左上。

これらをお袋に見せると「嬉しい、この歳になってこんな帯を締められるなんて。人様の着物は数えきれぬほど縫って来たが、自分の物は買えなかった」と言った後「こんな帯が欲しかったの」と献上の小袋を何度も撫ぜながら言ってくれた。

足の弱ったお袋を立たせ、仕立て上がった浴衣を何とか着せて撮った写真が、九十八歳の遺影になってしまった。

そんなお袋が仕立ててくれた着物の中に、右の写真黒襟を掛けた唐桟の半纏が有る。このほかにもじりの唐桟を仕立ててくれたのが、アタシが二十代の頃。以来唐桟が好きになり、二昔前、千葉で唐桟を織っていると言う機屋から、縞帳を送ってもらった事がある。

届いた縞帳を見ると、思い描いた唐桟とは別物。そこで機屋に電話をし「ありゃ唐桟じゃ、ねえじゃねえかよ」と言うと、機屋の大将が「すいません!糸がもう手に入らないもので!!」と申し訳なさそうに答えてくれた。

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身に着ける物にはとことん気を使い、気に入った物が無い時は手前でなんとかする。半襟は勿論、人様の裾回し・着尺も自分好みの色に染めるのは当たり前。左上は袷の時期の半襟の一部、右は単衣・盛夏物を着る時の絽の半襟。これだけ色数があっても使う色は半分以下、どうしても同じような色の半襟ばかりを使うようになる。

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亡きお袋九十六歳の時、何とか浴衣を着せて撮った写真、これを遺影とした。右が仕立て上がった琉球絣風のつい丈の着物、暑い沖縄の着物はつい丈・筒袖が本来の仕立て方、芭蕉布も然り。

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百屋お七の着物と呼んでいた、段麻葉の振袖はいつでも仕立てられっるようにと生地を裁っておいた。上に乗せてあるのが一尺指と雛形用の二尺指、右は黒襟用の生地と柳と呼ぶ絞りの帯揚げ。

右の市松人形は浅草橋の人形屋で昔ながらの顔立ちの胴を探してきて、それに合う着物を縫って着せたのもお袋。袖なしの被布に仕立てた生地は縮緬の帯揚げ。

医者の診たて違いから緊急入院したお袋のベッドには、上の雛形をぶら下げてやった。「縫いたいな!縫いたいな!」と言いながら針を動かす仕草をしていたお袋の慰めになるのではとの、思いから。しかし、回復はならず、98歳でこの病院で亡くなった。

着物は勿論だが、その他身に着ける小物類にも気を使う。手拭は浜町の手拭屋、下駄は雷門の履物問屋の物を使う。

左の写真は今は亡き浜町の手拭屋の大将、この大将がある日アタシに「ところで兄(あに)さんは、何をやってる方ですか?」と問いかけてきた。この大将とは何故か気が合い、長年馬鹿っ話はしてきたが、手前の素性を話したことは一度も無かった。そこでこんな問いかけになったのだと思う。

右の写真は雷門の履物問屋、左に居るのが大将。この大将と手拭屋の大将は顔見知りだが、それぞれの子供達は交流が無い。

ある日手拭屋の娘さんが、履物問屋へ行ってみたいと言うので「浜町の高虎の娘ですと一声かければ、話が通じるようにしてあるよ!」と答えた。

履物問屋の若女将にも、同じような事を言ってある。古い店同士が代々関りを持つ、てぇのは大切な事、こうゆう店が少なくなった昨今は、なおさらだと思っている・・・。

総絞りの娘の振袖生地を買ったのが、京都の絞り職人松田はんの処。娘の長襦袢地を括ってくれた松田はんの展示会に行った時、今は廃れてしまった縦絞りの技法で染められた反物を一目見て、買ってしまったのは二昔ほど前。

それから大分経った時、松田はんもその縦絞りをやりだした。左上の市松の生地は縦絞りで染めた物、これが型染だったらどうってことないが、絞りでこれを染めるのは至難の業。右二段上の絞りもスゲー難しい技だが、それを解る御仁が居ないのが今のご時世。

右下は、松田はんがスゲー安い値段で譲ってくれた鹿の子総絞りの反物。下に置いてある一尺指と比べると、絞りの具合が解る奴には解るんだが、今はそんな奴は殆ど居ないと思う・・・・・。

縦絞りを始めた松田はんの参考になればと、絞りの羽裏のついた羽織を着て神楽坂の展示会場に行った。この羽裏を一目見て「今、此れだけの物を絞れる職人は居ない!」と松田はんが一言。細い直線の絞りを括るだけでも大変なのに、羽裏にする為生地は厚手の羽二重。縮緬に比べ羽二重を括り、染めるのは難しい。

アタシが着ている半纏は全て写真の型染屋で誂えた物、左上の写真は今は亡き先代、右は気の良い大将。お節介なアタシは双方の為になればと、色々な御仁をこの曳舟の型染屋まで連れて行ったもんだった。

平成二十一年、お袋97歳の時の雛飾り、アタシが作った散し寿司を食いながら、お袋は笑顔でこんな設えを愛でていた。

長年使っていたうそつきの絞りの袖がもう一枚欲しくなり、右の写真下の生地を松田はんに見せると「この絞りは難しくてできない」と言われた。何とかしてくれと再度頼むと「似たようなものなら作れるかも?」と答えた。

そこで見本としてのこの生地と、手持ちの薄い羽二重を送り、絞りは松田はん染はアタシ、てぇ事で、東京・京都間を生地を二往復させ何とか上の生地を染め上げた。前記の羽裏といい、この絞りの袖といい、何気ない処に手の込んだ生地を使うのが昔の着物だった。

付紐を点けたり、小さなハギレを遣り繰りして被布を縫ったりしているお袋へ、吉原繋ぎの木綿生地を手渡し「これで、半纏縫いな!」と言った数日後、左の半纏が数枚仕立て上がっていた。

これを快気祝いにと、塩沢の機屋の大将に送ったことがある。すると大将から電話があり「どうして俺が欲しい物が解った??」と問うてきた。そこで「そのくらい,直ぐに解るよ!」と答えたもんだった。塩沢に見本にと送った雛形の中の一枚がこの半纏、送り返されてきた雛形の中から大将が喜びそうな品を送ったと言う訳。

振袖・打掛から袴・産着と何でも仕立てたお袋、そんなお袋でも良く見えぬ目で小さな袴を仕立てるのは大変だったと思う。左上は手渡した生地をやりくりして仕立てた男の子の綿入れの産着、これらを縫う時のお袋の顔は、そりゃ、楽しそうな笑顔だった。

十代で和裁を覚え、以後八十年仕立てをやって来たお袋も、片目が見えずもう片方の視力が落ちた晩年は、アタシの着物以外は縫わなくなった。そこで、雛形を縫うように勧めた。

雛形とは1/3の縮尺の着物の事、昔は稽古の為にと盛んに縫われていたが、今じゃ忘れられた存在に。雛形用の物差しを使い、アタシが手に入れた生地で思いついた着物を縫う事が、八十過ぎのお袋の楽しみになった。

呉服問屋・生地屋の他、古着で雛形に向きそうな生地を探してくるのがアタシの役目。左の段麻の葉の生地に黒襟用の生地を手渡し「これで八百屋お七の振袖を縫いな」と言うと「振りは柳で良いね??」と問うた。そんなお袋が仕立てた雛形の一部を、ご覧あれ!!・

生まれついてのお節介、これが着物のこととなると、一層拍車がかかる。お袋の処に来てくれていた訪問看護婦さんの色留を、染め直しに出してやったことがある、薄汚れた色留を洗ってから濃紺に染め直し。

それに合わせて草履も雷門の履物問屋で誂えた。鼻緒裏と前坪を淡い色にしてもらい、出来上がった頃に再び浅草へ。日本橋・浅草へ何度も足を運び、これらを揃え看護婦さんの所へ届けたが、礼の一言も無かった・・・・。

人様の着物の取り合わせを考えるのも大好き、秋草模様の紅梅に博多西村の五献上、それに合わせる帯締めを染めた。市販の白の帯締めをそのまま染めても色が入らない、そこで絞り職人松田はんに教わった石鹸炊きをしたあとぼかし染め・・・。

この紅梅が何たるか知らぬ御仁が殆どになっちまった、写真の紅梅の仕立てを頼んだ婆さんが、バチ襟に仕立てやがった。そこで「浴衣じゃねぇぞ、仕立て屋のくせに紅梅を知らねぇのかよ!」と襟を縫い直させた。明石・紅梅と呼ぶ生地は単衣と盛夏物の間の僅かの時期に着る着物、それを知らぬ御仁が殆どになってしまった、右も紅梅。

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吉原繋ぎのこの生地を最初に使ったのは、仕立てをしているお袋の背中が痛くないようにとこさえた背もたれ。写真のお袋はこの時九十五歳、右の写真は琉球絣ぽい木綿生地の雛形を仕立て中・・・・。

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博多西村の出店が人形町から上記の呉服問屋の裏に移って来た。てぇ事で足を運びやすくなり、ちょくちょく覗くようになった。廃盤になった角帯を見本として手渡し、復活させたのも通いやすくなった所為。この店で買った帯は殆どが献上か間道、右の写真の時は金茶系を買った。

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写真は塩沢一の機屋の大将、塩沢へ行ったついでに冷やかしで覗いた機屋で見せられたのが、右のお召。細かい絣の大人しい生地だったが、その仕上がりの良さについ買ってしまった。以後この機屋とは長の付き合い、大将を上記の呉服問屋へ紹介したこともあったが、この時は上手く話が進まなかった。

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